MAXIMES ET PENSÉES (Joseph Joubert)(野島明 訳)
日本語訳


『箴言と省察』(ジョゼフ・ジューベール)
『箴言と省察』(ジョゼフ・ジューベール)(野島明 訳)からの抜粋です。


 私はさながらアイオロスの琴であり、妙なる音を調べるがいっかな旋律を奏でない。止むことのない風が私にはついぞ吹かなかった。

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 ヴィクトリーヌ・ド・シャトネイ婦人によれば、私の魂には、たまたま身体と結びついたのであり、そんなことが可能であるかのように身体から遠ざかる風情があるとのことだ。この言葉の正しさを私には否定できない。

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 語の意味とその響きが等しく明晰であるのでなければ、すなわち語によって私の思惟に伝えられる対象が、その名称となっている言葉と同じようにそれ自体で明澄であるのでなければ、普通の明晰は私にはもはや十分ではない。

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 一冊の本を一頁に、一頁を一文に、その一文をただ一つの言葉で表したいという呪わしい野心に憑かれ苦しむものがいるとすれば、それは私だ。

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 私が錬磨するのは表現ではなく観念である。私に必要な光の雫が形をなし、私の筆先から滴り落ちるまで私はじっとしている。

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 声は命ないものには到底模倣できようもない人間的な音である。声はある種の威厳と浸透性を持つが、これは文字にはない。声は単に空気であるのではない。我々によって抑揚をつけられ、我々の体温がこもり、我々の呼気の蒸気に包まれているかのような空気だ。そうした空気が声に伴って流れ出し、精神に働きかけるのに適したある種の様相と力を声に与える。音声による言葉は肉体をもった思惟に他ならない。

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 幸福とは自分の魂を善良と感じることだ。厳密にいえば、他に幸福は存在せず、幸福は悲嘆の中にさえ存在しうる。だから、あらゆる喜びより好ましく、味わった人々の全てが喜びより好ましく思うような苦しみもある。

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 年齢には氷塊が伴う。それらは膝に、肘に、身体の節々のすべてに感じられる。それらは心臓にまで行き着く。だがようやく最後の最後にである。

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 頑健な老人だけが老齢の威厳を備えている。自分の年齢について語るのにふさわしいのはそうした人たちだけである。老齢がその人たちにあっては美しい形で座している。この場合、人はその老齢を愛する。虚弱な老人は自分たちの老齢を人に忘れさせねばならず、彼ら自身もそれを忘れねばならない。彼らに語ることを許されているのは自分の虚弱についてだけである。

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 自らの有徳と他者の幸福、これが地上の人間の目的二つである。なるほど自分の幸福は人間の最高の目標である。しかしこれは捜し求めるものべきものではない。人がそれに値して初めて、望み獲得できるものである。

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 箴言は重要にして疑い得ない真実を厳密にしかも格調高く表現したものである。すぐれた箴言はあらゆる幸福の根源である。しっかりと記憶に刻み込まれ、意志を涵養する。

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 理性にできるのは何を避けるべきか我々に教えることである。心だけが何を為すべきかを告げる。神が在すのは我々の良心の中であり、我々の暗中模索の中ではない。我々が理性を働かせるとき、我々は一人、あのお方なしに歩む。

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 感ずるところのないものを思考すること、これは自分自身を裏切ることである。思考の対象のすべては自らの存在のすべて、魂と身体とをもって思考せねばならない。

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「私は自分の地所に成り代わって考える」とある地主は言った。意味深く、普段に当てはまる言葉だ。実際、自分の地所に成り代わって考える人たちがおり、自分の店に成り代わって考える人たちもおり、自分の金槌に成り代わって考える人たちがおり、自分の空っぽの物入れに成り代わって考える人たちもおり、その物入れはといえば満たされたいと願っている。

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 ペトラルカが三十年の間崇め続けたのはラウラその人ではなくその心象であった。それほどに、印象と観念を保つ方が激情を保つより容易だ。それが昔の騎士らの忠節をなしていたものである。

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 断じて言葉が観念に違うのではない。観念こそが言葉に違うのである。観念がその極みまで完全なものになると、言葉は孵化し、姿を現し、その観念を纏う。

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 思想は魂から、言葉は思想から、文章は言葉から生まれねばならない。

 言葉が表す諸観念の間にある関係を、言葉の響きそのものに感じとるのは好もしい。


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