独言独歩
中村雄二(現文講師)のコラム

8.長島(4) 流れをつくる《手》

   6月30日の巨人対ヤクルト戦。2−2の六回裏、一死からマルティネス、中前に3本目のヒット、代走に川中。

   同点でしかもあと一度打席が回ってくるので、この交代は『?』と思っていたところ、…石井が四球…二岡に左前打…川中がホームインしたのである。
(「大矢明彦のスマート球論――《マルちゃんに代走・川中、だめ押し入れた長嶋“カン”督》」サンケイスポーツ、99年7月1日)
   七回二死一・二塁、川中の代打清水が二塁打。
   この日の長嶋監督の選手起用は、俗にいわれるカンピュータではない。自分のところに流れをつくる『手』であった。岡島→三沢→木村、そして槇原とつないだ投手交代にそれが出ていた。(前掲コラム)(太字強調は引用者)
   ものは言いよう、と意地悪な見方ができなくもないが、大矢は出来事をなぞるだけではなく、出来事を練り上げて形を与え、その形を言葉でかたるという、評論家の本来の役割を立派に担ったと言うべきである。野球評論家には稀な仕事ぶりだ。

   別の場所で時の人、孫正義について。

   今までの日本は道筋を大切に、摩擦なく進めることが大事だった。しかし孫さんは目標設定型。こうなるという目標を見定めて、途中の上下など気にせず突き進んで成功した。日本が変わっていく時代の象徴的な経営者です。
(『孫正義の逆転人生』中で経済評論家、八幡和郎の孫正義評、週刊朝日、1999年7月9日号)(太字強調は引用者)
   孫が一時の劣勢を逆転できなかったら「道筋を大切に、摩擦なく進めることが大事だった」と恐らく評されることになる。

[追記]

   認識の枠組み(エピステーメーもしくはイデオロギー)は闇夜の行燈でもあり、躓きの石でもある。凡庸な思考者の声高な発言には、躓いた後の無惨な傷跡をくっきりと見て取ることができる。

   6月27日にマルティネスを四番、一塁に起用したことを、

   守備の不安は承知のうえで、打撃を優先させる”ハイリスク・ハイリターン”の布陣
(『ハイリスク・ハイリターンの長嶋監督の”超能力采配”』署名なしのコラム、サンデー毎日、1999年7月18日号)(太字強調は引用者)
   と認識し発言している主体は誰なのか、どこにいるのか。「長嶋監督のカンピューター采配はこれだけではない。」(同コラム)という認識を語った後、6月30日の巨人対ヤクルト戦の七回二死一・二塁で、「相手先発が左腕の高木ということで外していた左打者の清水を代打で起用、貴重なタイムリー二塁打が飛び出す。」(同コラム)という状況を記述する。続いて同コラムは次のような原総合コーチの言葉を引いたあと、一言付言する。
「監督は”ここは清水しかいない”って言ってたけど…何かカンピューターが働いたんじゃはないの?」

   とあきれ顔だ。(太字強調は引用者)

   「あきれ顔」と了解したのはコラムの筆者である。(この発言をしているときの原の表情をコラムの筆者が実際に見たのかは不問に付してもよい。)真面目な疑問だが、あきれ顔なのは本当は誰か。

   さらに続くのは巨人担当記者の言葉とされている。

   マルちゃんのレフト起用は、野村さん(阪神監督)や森さん(前西部監督)なら絶対やらない。たまたまうまくいっているけど、拙守が原因で落とす試合がいくつか出てくると思う。少なくとも投手には精神的に大きな負担になっているはず(同コラム)(太字強調は引用者)
   再度問う、「マルちゃんのレフト起用を絶対やらない」のは、また「…と思う」のは本当は誰で、その誰かはどこにいるのか。

   長島の指揮を「”超能力采配”」(括弧付きである)、「カンピューター采配」、マルティネスの先発起用を「”ハイリスク・ハイリターン”」(括弧付きである)の布陣、野村や森なら「絶対やらない」采配と認識させている思考の枠組み、これは一つのイデオロギー、それも対象化されていないイデオロギー、奉じていることを公言することがなぜかためらわれているイデオロギーである。ある認識の枠組み(イデオロギー)とそれに依拠する認識を公言しながら、自分のイデオロギーを秘匿し続けるもの、それが再三問うてきた「誰か」であり、その居所が「秘匿されているイデオロギー」である。相対峙していると見せかけながら、実際には居所を相手に知らせずに射かける狙撃者がこの「誰か」である。その居所は秘匿されているが、窺い知ることはもちろんできる。

   プロ野球の戦術・戦略・選手起用に関する考え方の内、「野村や森なら」という前提で語られることの多い考え方、それ一つの野球観である。それは"一"野球観であるにもかかわらず、長島の野球観(長島の野球観、という言葉にはカッコもつけないし、これを太字で強調することもしない)と対比されるとき、年端の行かない子供にさえ、《正統的》と実感されることになる野球観である(「長島(3)唯我独尊」参照)。それ故、プロ野球の経験者であるなしを問わず、大抵の人(時には長島ファンでさえ)が野球を語りつつ、意識的にか、無意識的にか、拠って立っており、それに拠って立つしかないかに思われる野球観である。

 コラムは次の言葉で終わる。

   拙守で足を引っ張られ、投手が調子を崩すのが一番怖いと思うのだが…。(同コラムより原文通り)
   ここで披瀝されているのは「誰か」の居所、即ち「野村や森なら、の野球観」である。この「誰か」に「私は野村や森と野球観を共有している」と初めに一言述べさせることを妨げているもの、自分の拠って立つ場所を隠したまま、実は対局者であるのに「岡目八目の物言い」を装わせるもの、恐らくそれもまた広く根深く浸透している「野村や森なら、の野球観」である。(「野村や森なら、の野球観」については別稿で取り上げる予定。)
記 99年7月2日 : 追記 7月10日

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