(続)折々のコラム(野島明)

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物知らぬことを喜ぶ――自虐でなし謙譲でもなし 

   気心の知れた知人に、ニューヨークに行ったら(当面ニューヨークに行く予定はない)モーリン・ダウド(注1)と会食する機会を持ちたいと思っている、そう口を滑らせた。知人は、君が《神》をも恐れぬ(注2)無鉄砲なやつだとは思っていたがそれほどとは思わなかった、とあきれてみせた。

   そのダウドの論説を読むと、その度にと言っていいほど、初めて目にする語に行き当たる。普通の記事を読んでいても見知らぬ語に出会うことはしばしばであるが、ダウドの論説の場合は特になのである。これほど長きに渡って接している言語だというのに。

   これはトマス・フリードマン(注2)の論説を読む場合と比べてみればその違いは歴然である。後者の場合、辞書の助けを借りるまでもなく読み通すこともたびたびなのである。

   自分の浅学を嘆かわしく思わないではない。が、学ぶことが多いことを喜ぶべきである、と思うことにしている(実際、そう思っている)。

   永遠の生命と同様、欠けるところのない知識も恐るべきであるやもしれないのである。

記 〇五年八月

(注1)
ニューヨークタイムズ紙の人気コラムニストでありバリバリの「ラディカル・フェミニスト」であるダウドは堂々たる保守派ウイリアム・サファイア(『折々のコラム』中の「WILLIAM SAFIRE、Henry Kissingerを語る」参照)の同僚コラムニストである ("My colleague in columny Maureen Dowd ......" (ON LANGUAGE: Mishegoss By WILLIAM SAFIRE, The New York Times ON THE WEB, April 17, 2005))

そんなダウドもニューヨークタイムズ紙Op-Ed欄(『現代英語力標準用例集』【名詞(2)】中の"Op-Ed"参照 )では《地雷》Dworkin『雑想雑感』(その一)参照)には触れていない。ニューヨークタイムズ紙のOp-Ed欄にDworkin追悼の論説Who Was Afraid of Andrea Dworkin?(The New York Times ON THE WEB, April 16, 2005)を寄稿したのはCATHARINE A. MacKINNONである。同氏とDworkinとの共著にPornography and Civil Rights: A New Day for Women's Equality (Organizing Against Pornography, 1988)がある。

サファイアは2005年1月24日付論説"Never Retire"を最後にニューヨークタイムズ紙コラムニストの座を退いた。"Magazine""ON LANGUAGE"欄は続けている。後任コラムニストはニューヨークタイムズ紙記者JOHN TIERNEY

ダウドの論説には時に辟易させられることもあるが、Recline Yourself, Resign Yourself, You're Through(April 13, 2005)は私が目にしたうちでは最高の出来映えの論説である。印象に残っているのは The Age of Acquiescence(June 26, 2002)。どうやら彼女とは同世代であるらしいことを教えられた感慨深い一文。

「著書執筆休暇[book leave]」とかで5月7日付論説"What Rough Beasts?"を最後にしばらくOp-Ed欄から姿を消していたが、8月10日付論説Why No Tea and Sympathy?で復帰。

(注2)
神は死んだ、としか言えなかった彼の人。
初めからいない、とは言えなかった。
『片言隻句集』(野島明)その二

(注3)
モーリン・ダウドと並ぶニューヨークタイムズ紙の人気コラムニスト。

人気コラムニストということではFrank Richも同様であるが、氏の特質はその豪腕である。この「豪腕」は「豪腕投手」の「豪腕」であるから、球に勢いがあるだけではなく制球も優れているということであり、結果、「極めて優れている」と同義である。

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